大判例

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新潟地方裁判所 昭和46年(わ)150号 判決

被告人 金沢ヨネ

昭二・五・一〇生 無職

主文

被告人を懲役二年に処する。

この判決の確定した日から三年間右の刑の執行を猶予する。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は、看護婦として妙高病院に勤めていた昭和二五年ころから、現在の夫であって、当時妻子のあった金沢暉勇太(明治三五年一一月二七日生)と情交関係に入り、昭和三〇年二月一七日に同人との間に長女敏子を儲け、その後暉勇太の先妻が死亡したため、被告人は暉勇太と結婚し、新潟市天神尾一三七番地一三六の現住居地で同人および敏子と生活を共にしてきたものであるが、暉勇太は昭和四五年一二月中風で倒れて半身不随となり、自宅で療養していたところ、昭和四六年五月五日夜、先妻の子供達ら八名位が訪れて暉勇太を近く入院させたいといって、被告人と敏子の意思に反して半ば強引に暉勇太を引き取って行ったことから、自分たちの境遇を悲しみ、敏子が死にたいといい出したのをきっかけに、同女と二人で心中しようと決意し、翌六日午前四時三〇分ころ、前記の自宅で殺虫剤を飲んで意識を失っている同女の頸部を同女の承諾のもとに両手で締め、それによって同女を間もなく同所で頸部圧迫により窒息死させて、殺害した。

(証拠の標目)(略)

(当事者の主張に対する判断)

一、普通殺人の事実を認めず、承諾殺人の事実を認めた理由

本件公訴事実の要旨は、「被告人は、同居中の夫金沢暉勇太(当六八年)が先妻の子供達に引き取られたことから前途を悲観し、長女金沢敏子(当一六年)を殺害して自殺しようと決意し、昭和四六年五月六日午前四時三〇分ころ、新潟市天神尾一三七番地一三六の自宅において、右敏子の頸部を両手で扼し、よって、即時同所において、同人を右扼頸による窒息死に至らしめて殺害したものである。」というのであり、検察官は、被告人の本件殺害行為について、被害者敏子が死にたいと口走ったことはあるが、それは一時の興奮によるもので真意から出たものではなく、同女は自由で真意にもとづく承諾を与えていないから、本件は承諾による殺人ではなく、刑法一九九条を適用すべきであると主張し、一方弁護人は、承諾による殺人であると主張しているので、この点について判断する。

まず被告人が本件犯行を犯すに至るまでの経緯を検討する。

前掲の各証拠を総合すると、次の各事実を認めることができる。すなわち、被告人は新潟県新井市の頸南病院付属看護婦養成所を卒業したのち、看護婦として妙高病院に勤めていた昭和二五年ころ、同病院の事務長をしていた金沢暉勇太(明治三五年一一月二七日生)に求められて同人との間に情交関係をもつようになり、昭和三〇年二月一七日本件の被害者となる敏子を儲けた。

この金沢暉勇太には先妻キクと、その間の長男暉一郎、長女敏子、次男栄二の三人の子供があったが、昭和二八年ころ長女の敏子は病死しており、昭和三〇年九月ころ先妻キクも病死したため、被告人は昭和三一年七月暉勇太と正式に婚姻の届出をし、そのころから新らしく生れた敏子と共に現住居地で暉勇太らと生活を共にするようになったが、先妻の長男暉一郎と次男栄二は家に居づらくなって昭和三四年ころ家を出て独立しその後被告人らとは仲違いの状態が続いていた。

被告人の夫暉勇太は、各地の病院や新潟県病院局などの勤めをしていたが、病気勝ちであり、昭和三三年ころには退職し、それからは一家の生計は、同人の退職後の恩給のほかは、被告人が新潟市内の小、中学校で養護婦として勤めて得る収入に頼るようになった。被告人は、暉勇太の病気の看病の疲れや生活の苦労もあって、病気勝ちとなり、昭和四五年四月退職した。この間昭和三九年に新潟地震でこわれた家屋の増改築や、生活上の必要などから、夫の親戚や各金融機関から時々借金をするようになった。

夫暉勇太は、昭和四五年一二月中風で倒れ、半身不随となり、自宅で療養を続けていたが、そのころから先妻の長男暉一郎、次男の栄二や暉勇太側の親戚の者が時折訪ねてきて、暉勇太を今後どうするか、暉勇太の所有名義になっている建物を将来誰のものにするかなどについて、相談をもちかけるようになった。

本件犯行の前日である昭和四六年五月五日の夕方、暉一郎、栄二のほか暉勇太側の親戚の者合計八名位が、前触れもなく被告人方を訪れ、暉勇太を近く入院させるから連れて行くと強く申し入れた。突然のことで、被告人はこれに反対し、せめて翌日の昼間まで待って貰うようにと頼んだが、容れられず、暉勇太も行くことを承知するに至ったので、同日午後一一時ころ敏子には断りなしに、暉一郎らは暉勇太を引き取って行った。

一方本件被害者敏子は、生長するにつれて、先に述べたような複雑な家族関係や人間関係を知るようになり、思春期を迎えて悩むこともあり、先妻の子である暉一郎らとはうちとけなかったが、父暉勇太、母被告人に対しては深い信頼を寄せていたものであるところ、本件犯行前夜自宅にいて暉一郎ら八名位がきてから父が連れ去られるまでのやりとりをへやの外で立ち聞きしていて事情を察し、非常なショックを受け、父が連れ去られたあと興奮で青ざめながら、被告人に向って「お父さんのいない生活なんか考えられない。」といい、さらに「死にたい。」と口走ったので、同じくショックを受けていた被告人は、一旦はとめたものの、敏子の意思が堅いことと、自分自身も冷静に判断する余裕をなくしていたため一緒に死ぬ気になり、「お母さんと一緒に死ぬか。」と敏子にいったところ、敏子はそれに同意した。それから二人で一緒に風呂に入り、二階の敏子の部屋でしばらく話をした後、被告人が物置にあった殺虫剤を持ってきて、用意した小型のコップに注いでやったところ、敏子は受け取って自分でこれを飲み、自分でベッドに入ってやすんでから五分くらいたって、だんだん意識を失って行き、それからさらに二〇分くらいたつと、のどをごろごろ鳴らして苦しんでいるように見えたので、被告人は敏子をひと思いに死なせてやろうと思って、判示のように敏子の首を締めて殺害したのである。

以上のような本件の経緯に即して見ると、まず敏子の「死にたい。」ということばが真意であるか否かについてであるが、敏子と同じ思春期にある子女を含めて、はっきりしない理由から死を口にすることは往々あることだから、このような言葉を発することが常に死の意思を示すものとはいえないであろうが、本件の敏子の場合は、そのようなはっきりしない理由からこの言葉を発したものではなく、さきに述べたような複雑な家庭の境遇に生れ育った敏子が、この世の中で深く信じかつ頼っていた父親が深夜大勢の人によって連れ去られると共に、その父親が自分を捨てていったものと考えて、わが身のあわれさと悲しみの余り死にたいと思ったものと認められ、このような事情に照らすと、敏子の「死にたい。」という言葉は明確な理由にもとづく死の決意を表示するものと認めるのが相当であり、このように認めることは何ら不自然ではない。さらに死にたいといってから殺虫剤を飲むまでかなりの時間を経ており、思い直す余裕は十分あったのであるから、単に瞬間的な感情の動きによるものではない。なお、敏子は若年とはいいながら、当時すでに一六歳で、知能も別段通常の人より劣っていたことを窺わせる事情はないから、死を理解し、これを選択するかどうかを判断する能力に欠けるところはなかったものと認められる。したがって、敏子の「死にたい。」ということばは真意に出たものと認められる。

次に敏子に死ぬ意思があったとしても、本件は敏子が殺虫剤を飲んだことにより中毒死したものではなく、その後被告人がその頸部を両手で締めて窒息させて死亡させたものであるから、このように被告人の手で殺されることに対する敏子の嘱託ないし承諾があったか否かが問題となる。敏子がこの嘱託ないし承諾をする能力があることは右に述べたところから明らかであるが、本件で敏子が被告人のこのような行為について明示的に嘱託ないし承諾をしたということを窺わせる証拠はない。しかし前に認定したところから明らかなように、一方において当初被告人には敏子を殺害する意思はもとより、敏子と一緒に死のうという意思もあったわけではなく、敏子の方から先に死にたいといい出し、被告人が一旦はとめたにもかかわらず、敏子の死のうという意思は非常に堅かったこと(被告人はそれに引ずられて結局二人で死ぬことに決めたものであること)、しかし他方において、一緒に心中することを決めてからは、その手段、方法などについて敏子と被告人とが特に話し合った形跡はなく、敏子は母である被告人の指示するまま一緒に風呂に入り、被告人が物置から持ってきて小型のコップに注いだ殺虫剤を受け取って、自分で飲み、ベッドに入って静かにしていたことが認められる。

以上の点をあわせて考えると、敏子から被告人に対して殺害の嘱託があったとまでは認められないとしても、敏子は被告人と一緒に死ぬことについては堅い決意があったが、その具体的なやり方については全面的に被告人の為すがままに委ねていたものと認めるのが相当であり、このことからすれば、もし殺虫剤を飲んでも死に切れなかったときには、そこで中止するのではなく、他の適当な方法で(常識的に見て奇異な、あるいは残虐な方法でない限り)被告人の手で殺されることにつき、遅くとも殺虫剤を受け取って、飲んだ時点で、黙示の承諾を与えたものと認めるのが相当である。

なお、検察官は被告人が生き残ったことをとりあげ、被告人自身は本当に死ぬ気がなかったのではないかと疑い、そこからも承諾のない殺人であることを裏付けようとしているかのように見えるが、関係証拠によれば、被告人が敏子だけを殺して自分は生きていようとしたことを窺わせる事情は全くなく、現実にも被告人は敏子を殺害したのち、後に述べるように敏子よりも多い量の殺虫剤を飲み、それでも足りないかと思い左腕の動脈を注射器の針で所在を確かめた上で、その付近を軽便かみそりで切ったことが認められるので、その場でとりうる方法としては特に不足であったとはいえないし、右の自殺をはかった後、約半日間は意識不明で生死の境をさまよっていたのであり、もし発見が遅れて手当が加えられなかったら死亡するに至ったことも十分考えられることなどから見て、被告人の自殺をはかった行為は真剣なものであったと認められ、この点の検察官の主張は採用できない。

以上述べたように、本件は普通殺人ではなく、被告人の殺害に対して被害者の任意かつ真意から出た承諾があった承諾殺人と認定すべきものであり、これを争う検察官の主張は理由がない。

二、弁護人の心神耗弱の主張に対する判断

弁護人は、被告人が本件犯行当時精神的に極度に疲労しており、心神耗弱の状況にあったと主張するので、この点について判断する。

被告人が、前記のように、夫暉勇太との苦労の多い生活、さらに夫の親族との間の複雑な関係、家計上の心配事、夫と自分自身の病気など多くの問題をかかえて気苦労が続き、当時精神的に疲労していたという事実に加えて、本件犯行の前夜、突然暉一郎ら八名位の者がきて、深夜近くに半ば強引に夫を引き取って行き、被害者敏子と二人だけで残されたことによりショックを受け、その状態でさらに敏子に死にたいといい出されるなどして、被告人が精神的にある程度疲労と動揺のうちにあったことは推察するに難くない。しかし、被告人が敏子と共に死ぬことを決意してから敏子殺害の実行行為に移るまでにはかなりの時間的余裕があり、その間に被告人は敏子と共に入浴し、しばらく話をし、物置から殺虫剤を持ってきて、敏子のため小型のコップを用意して殺虫剤を注いでやり、敏子がそれを飲むとベッドの中で静かにしているように指示し、さらに敏子が薬の作用で苦しむのを見て、どうせ一緒に死ぬのだから一思いに死なせてやろうと決意して、敏子の首を締めて殺害したものである。なお、関係証拠によれば、被告人は敏子を殺害したのち、その失禁のあとを始末して敏子に新らしい下着をつけさせ、汚れた下着は風呂場で洗濯し、またその後自分で飲む殺虫剤(敏子の飲んだ量より多い量)を水飲み用のコップに入れた後、殺虫剤の瓶を洗って捨て、コップ内の殺虫剤を飲み、そのコップを洗ってから敏子の側に戻り、殺虫剤で死に切れない場合を考えて用意した軽便かみそりで左腕の動脈付近を切り、遺書を書いているうち意識を失ったものであることが認められ、その行動は通常人が理解に苦しむようなものは全くなく、秩序だっており、むしろ死を覚悟した人のもつ一種の冷静ささえ感じられるほどである。さらに被告人自身、検察官に対する供述調書の中で「精神的に特に異状だと言うことはぜんぜんありませんでした。」と述べている。以上によれば、被告人は本件犯行当時自分の行為の是非善悪を弁識し、その弁識に従って行為をする能力が著しく減弱していたものではないことが明らかである。したがって、心神耗弱の状況にあったという弁護人の主張は理由がない。

(法令の適用)

被告人の判示行為は刑法二〇二条後段に該当するので、所定刑のうち懲役刑を選択し、その刑期の範囲内で被告人を懲役二年に処し、情状により同法二五条一項一号を適用してこの判決の確定した日から三年間右の刑の執行を猶予することにし、なお訴訟費用については刑事訴訟法一八一条一項但書により被告人に負担させない。

(量刑の理由)

前記のように、本件は公訴事実のような普通殺人ではなく、被害者敏子の承諾を得た殺人ではあるが、被告人の行為によって、すでに一六歳にまで生長し将来にいろいろの可能性を秘める被害者の生命が失われたという結果は重大である。たとえ被害者が死ぬ意思を持っていても、被告人としては軽々しくそれに同ずることなく、生命の尊厳を説いてあくまでも思いとどまらせ、将来の幸福のための努力をすべきであった。それが人間としてまた母親としてとるべき道である。もし被告人が最大限の努力で説得し、また自殺しようとしてもそれに手を貸さなかったとしたら、被害者がそれをふり切って死んだかどうかは疑問である。さらに被告人は被害者を自分の手から離したくなかったと述べているが、これは子供を自分の所有物視するという日本の母親によく見られる前近代的思考のあらわれである。このようにして、被害者敏子の生命を奪った被告人の責任はまことに重いものがあるといわなければならない。

しかしひるがえって考えると、本件においては被告人に同情すべき点も少なくはない。二四歳も年長で妻子を持つ暉勇太との、社会的に受け容れられないそもそもの結びつきに、被告人のそれ以後の運命はほとんど左右され、そこから生ずる絶えざる苦労を味わうこととなった。特に暉勇太が病に倒れてからは被告人の細腕で一家三人の生活を支えていた。その生活が被告人にとってはすべてであったし、年老いて病にあったとしても暉勇太は敏子にとってのみならず、被告人にとってもなくてはならない存在であった。その暉勇太がさきに述べたように、突然に訪れた先妻の子供やその親戚の人達に、その人達にはそれなりの事情があったであろうが、深夜近く半ば強引に引き取られて行ったことが被告人に対しても大きなショックを与えたであろうとは想像に難くない。そして自分たちの側にあると思っていた暉勇太が自ら進んでではないにしても、暉一郎らの申出を受け容れ簡単に引き取られて行ったとき、被告人はそれまでの努力の意味がわからなくなる思いであったであろう。「お父さんのいない生活は考えられない。」という敏子のことばは被告人にも同じであったと思われる。そのような心身の疲労と動揺のうちにあって被告人は敏子が死にたいといい出したので、いっそのこと自分も一緒に死のうと決意した。結果的には敏子を殺すことになったが、被告人としてはあくまで一緒に心中するつもりだったのであり、ただ娘の死を見届けてから自分が死ぬということにしたのは母親として自然であろう。したがって自分だけが生き残ったのは被告人にとって全く不本意であるに違いない。その意味では被告人は既に刑罰に劣らぬ苦痛を受けてしまったともいえよう。

以上のように考えると、被告人の行為は結果において重大であったとはいえ、その動機に十分同情すべき点があり、これからも再犯の可能性はないと考えられる点もあわせて一切の情状を考慮すると、被告人を実刑に処するよりは、その刑の執行猶予し、社会にあって永くその冥福を祈らせるのを相当と考える。

よって主文のとおり判決する。

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